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鬼和尚天空

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変化によって自我を見るのじゃ。
  自我も全てのものごとと同じく、観念として認識されておる。
 自我が観念である事から、変化も常に起きているのじゃ。
 その変化を観る事で、常に変わらぬ自分というものが幻想である事も気づくのじゃ。

 その変化を観察するにも、お釈迦様の教えである縁起が役立つのじゃ。
 自我は全てを認識する上での基礎であるから、自我の変化は、環境や人の観念である世界にも影響が起こるのじゃ。

 例えば自分を駄目な者と思っていれば世界も灰色に見えたりする。
 逆に自分を偉いと思っていれば世界は明るく見えたりするじゃろう。
 苦が一つ滅しただけでも、世界が変わるように感じられるのも、自我が変化したからなのじゃ。

 そのように自分の観念である言葉とイメージが変われば、自分が見る環境や世界の言葉やイメージも変化するのじゃ。
 そのような変化を感じたならば、十二因縁の縁起の観察法などを参考に、自らの自我を観察してみるのじゃ。

 環境の変化が感じられたならば、その変化は自我の変化によって起こったと観察し、自我の変化が無ければその変化も無かったと観察してみるのじゃ。
 感覚が変化したならば、自我の変化によって感覚が変わり、自我の変化が無ければ感覚の変化も無かったと観察するのじゃ。
 感情が変化したならば、自我の変化によって感情が変わり、自我の変化が無ければ感情の変化も無かったと観察するのじゃ。

 感覚の変化は十二因縁の分類に随うならば、無明の変化によって蝕が変わり、無明の変化が無ければ触の変化がないという事になるのじゃ。
 感情の変化は無明の変化によって想が変わり、無明の変化が無ければ想の変化がないという事になるのじゃ。
 感覚や感情の変化は観易く、捉え易いものじゃ。
 
 未だ自我を捉えられない者も、そのように変化を観る事で、自我に気づくきっかけにも成るじゃろう。
 常住にして変化しない自我など無い事がわかるからのう。
 修行者はそのようにして観察してみるのじゃ。

  
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悟りを得るための修行法 | 09:26:11 | Trackback(0) | Comments(11)
コメント
鬼和尚は、観察によって、観察する者自身が変化していくことを説いているように思います。そのような観察というのは、どのような状態で起こるものでしょうか?

たとえば、「自分自身のイメージ」を観察するとき、我々はそれを、自分自身だということを始めから知っているわけですよね。そのイメージはもしかしたら、誰か他人によって勝手に植え付けられたものかもしれません。しかし、我々はそれを「自分自身」だと思い込んでいるわけです。それは、時において、好ましいものであるかもしれませんし、反対に、怖気が走るほど、絶対に見たくないものであるかもしれません。

見ることが喜びにつながることもあれば、反対に、苦痛に変わることもあるわけです。もし、喜びにつながるのであれば、我々はそれを常にそばにおいて、絶対に手放さないようにするでしょう。しかし、苦痛につながるのであれば、できるだけ遠くに追いやって、自分の近くには置かないようにするのではないでしょうか?

では、一体、「何」が喜びを生み、また、苦痛へとつながっているのでしょうか。なぜ、我々は、それらの感覚を生み出している原因「そのもの」を観察しようとしないのでしょう?

…鬼和尚はなぜだと思われますか?なぜ、我々は、本質にさかのぼって議論することができないのでしょうか。
2016-05-04 水 08:20:10 | URL | むーみん [編集]
①全ては変化
②全ては生滅
③全ての人間は苦しみ

呼吸一つで得る①②③
呼吸に集中すれば瞑想を得られると実感してます
悟りと脳の関係ですが、呼吸するたびに脳の反応が感じられます
観察を始めて半年、1ヶ月前から怒りは感じられないです 
思考する事が面倒に思い、思考に囚われてる状態が非常に不快に思います。

悟りと脳の感覚について教えて頂きたいです
2016-05-05 木 02:32:02 | URL | 神通力 [編集]
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2016-05-05 木 19:28:51 | | [編集]
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2016-05-12 木 01:32:15 | | [編集]
Re: タイトルなし
むーみん

 恐れがあるからなのじゃ。
 変化への恐れ、自分が無くなることへの恐れ、恐れる事そのものにも恐れがあるから観察しようとしないのじゃ。
 道端の花を見て赤いとか、白いとか気づいたならばそれがもう観察なのじゃ。
 そのように恐れを超えて自分の心を観察する事が実践なのじゃ。
 恐れを超えて実践あるのみなのじゃ。
2016-05-19 木 19:37:01 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: タイトルなし
神通力

 悟りを得れば脳がただの思考の為の組織とわかるじゃろう。
 自我が無い時、脳はあるがままの正確な思考を働かせ、問題から回答を導き出すのじゃ。
 それが智慧と呼ばれるものなのじゃ。
 そして用がない時は思考も働かせないようにできるのじゃ。
 悟りを得ればそれが如実に判るじゃろう。

2016-05-19 木 19:42:23 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: タイトルなし
理央

 そのような苦も原因から観察すればなくなるじゃろう。
 原因がわかっているならば、そのような過去の原因から苦が起こり、それが無い時は苦も無かったと自分の心を観察するのじゃ。
 そうすればなくなるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。


2016-05-19 木 19:45:45 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
鬼和尚さん、こんにちは。

観察する位置に立つ練習をしていきます。
実践あるのみですね。
お返事ありがとうございます。
2016-05-23 月 13:18:04 | URL | 理央 [編集]
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2016-05-24 火 21:44:32 | | [編集]
Re: タイトルなし
理央

 そうじゃ、実践あるのみなのじや。
 またおいでなさい。
2016-06-02 木 12:52:07 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: タイトルなし
そらの…

 そのような事は瞑想すれば起きるものじゃ。
 特に変わったことでもないのじゃ。
 わしも瞑想中に体が曲がったような感じがしたのじゃ。
 そのような経験が無くてはならないということでもないのじゃ。
 雑念と同じく囚われなければなんでもないのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。
2016-06-02 木 12:55:57 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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