投稿日:2018-05-02 Wed
観察とは本来そんなに難しいものではないのじゃ。例えば道を歩いている時に、道端に花が咲いていると観ればそれも観察なのじゃ。
花びらが五枚在るとか、葉っぱが二枚とか観ればそれもまた観察なのじゃ。
そのように何でもありのままに観れはそれが観察であり、誰にでも出来ることなのじゃ。
今ここに在るものごとをありのままに観ることであるから本来は簡単なのじゃ。
しかし、人は記憶に依存している故に、観察も一度で終わり、記憶による認識が始まってしまうのじゃ。
先ほど観た道端の花も、少し経つとさっきの花だとか思って同じものと分別し、認識してしまうのじゃ。
実際には時が経って花が散ってしまったり、葉が落ちているかもしれんのじゃ。
そのような変化を観ずに、記憶によってさっきの花と同じと認識してしまうのじゃ。
それはもう観察ではないのじゃ。
記憶による分別になってしまうのじゃ。
このように観察は本来、簡単なことであるが、記憶に拠ってしまえば観察は観察ではなくなってしまうのじゃ。
そのような記憶による分別には注意しなければならないのじゃ。
心の働きを観察する時にも、そのような記憶による分別に注意しなければいかんのじゃ。
昨日観察した心の働きが、今日も同じく在ると思うのも記憶による分別となるのじゃ。
観察を日々続ければ心は変化していくものじゃ。
昨日観察できた心の働きも、今日にはなくなっているかもしれんのじゃ。
記憶によらずそのような心の働きの変化も、よく注意して観察しなければならんのじゃ。
毎日、自分の本心を始めて観るかのように注意深く観察していくのじゃ。
記憶による連想や雑念が生じたら、それに構わず流していくとよいのじゃ。
数息観等の集中の行が出来ていればそれも可能なのじゃ。
毎日観察を続けていると、やはり習慣化して過去と同じようになってしまうものじゃ。
昨日と同じ心の働きが在るだろうと思って集中すると、その働きを自ら作り出してしまうこともあるじゃろう。
それは観察ではなく観念遊戯なのじゃ。
毎日観察しているつもりでも、長く何の発見も無いというならば、そのような観念遊戯に陥っていないか、自らの状態を観察してみるのじゃ。
全力を集中して今ここにある心の働きを始めて観るかのように注意深く観察すれば、新たな発見も在るものじゃ。
そのようにして自我の働きが観られたならば、無我にもなるのじゃ。
そして記憶に依存していたことも気づき悟りも訪れるのじゃ。
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2018-05-17 木 10:29:57 |
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ネロ
それもありのままに観察していけばよいのじゃ。
それがどのようにして働いているのか気付けば自分というものの解明にも役立つじゃろう。
実戦あるのみなのじゃ。
それもありのままに観察していけばよいのじゃ。
それがどのようにして働いているのか気付けば自分というものの解明にも役立つじゃろう。
実戦あるのみなのじゃ。
2018-05-17 木 14:02:07 |
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鬼和尚天空
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