投稿日:2023-09-02 Sat
自分を愛し、敬おうとしてもどうしても出来ない者も多くいるじゃろう。実践しようとしてもどうしても自分を虐待して、心の中で罵ったりしてしまうのじゃ。
それが正しい事だとさえ感じるのじゃ。
その原因の多くは罪悪感であるのじゃ。
子供のころに虐待を受けたりして、自分が罪深い者であるから虐待を受けるとか、思ったりするのじゃ。
あるいは兄弟姉妹の多い家庭で、親の関心が他の子に移ってしまうと、自分が悪い子だからとか思うのじゃ。
そしてそんな自分を虐待したり罵ったりしてしまうのじゃ。
それが親からの態度で学習したことであるから、正しいことだと感じてしまうのじゃ。
自分の意志でやめようとしても、やめられないのじゃ。
自分を虐待するとは、わざとさまざまなものごとを失敗するように仕向けたり、危険な行動をしたり、拒食症になったりすることなのじゃ。
なにかよいことが起きても、それを自分から壊したりするのじゃ。
金を手に入れたら散財してしまい、名を上げたら恥ずかしい真似をして自分を貶めたりするのじゃ。
そのようにして自分が常に困窮するように仕向けるのじゃ。
それが正しいと感じるから、止められないのじゃ。
そしてついには自分を破滅に追い込んだりするのじゃ。
そのような作用をする罪悪感を滅するには、先ずはそれが正しくないものであると確信しなくてはいかんのじゃ。
親から与えられた条件付けで、それが正しいと思っていれば、いつまでもなくなることはないのじゃ。
そのように説かれてもまだ自分が罪悪感を持つのは正しいと感じる者もいるじゃろう。
自分は本当に罪を持つものであり、常に罪悪感を持っていなければいけないと思うのじゃ。
しかし本当に罪があるならば、ただ懺悔告白して、二度としないと誓えばよいのじゃ。
それ以上に思い悩む必要はないのじゃ。
無理に思い悩むのはただ親から与えられた観念であり、それが自分であり、自分の一部と感じるからなのじゃ。
それは倫理的に正しいからではなく、ただ何も知らない幼少期に植えつけられた観念であるから、失うことに抵抗があるだけなのじゃ。
それが自他に害があり、破滅をもたらすものであれば、取り除くのは当然なのじゃ。
このように罪悪感とは過去の間違った条件付けによって生じた、有害な観念であると、はっきり理解するのじゃ。
それも煩悩の一つであり、滅すべきものとして認識するのじゃ。
そして決別する決意を固めるのじゃ。
決意が確かなものになったならば、自分の心を観察して原因を追究するのじゃ。
初めて罪悪感を感じたのはいつであるのか、それが強く感じられたのはいつごろのことなのか、追求してみるとのじゃ。
それが原因を探すことになるのじゃ。
原因が分かったならば、その原因から罪悪感が起こり、諸々の自己虐待や自己への暴言などが起こったと観察するのじゃ。
原因がなければ罪悪感はなく、諸々の自己虐待や自己への暴言などが起こらないと観察するのじゃ。
そうすれば罪悪感も消えていくのじゃ。
諸々の自己虐待や自己への暴言などを止められない者は、このように実践して自らの心を罪悪感から解放するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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2023-09-05 火 19:43:55 |
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mskm
善い事じゃ。
気づきがおこったのじゃな。
そのようにして確実に進歩していくのじゃ。
さらに精進あるのみなのじゃ。
2023-09-05 火 22:49:38 |
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鬼和尚天空
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2023-09-15 金 12:28:58 |
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古参の在家
それ位の赤子ならばまだ本能によって動いている故に、本当に自他の肉体が傷つくような直接的な行動はしないじゃろう。
問題はつねにおぬしの心にあるものじゃ。
赤子がこのように動いたらよいとか、こんな動きはやめさせたらよいとか思っていれば執着になるじゃろう。
執着は時間とともに大きくなり、苦になるじゃろう。
今ここで自分の心を見るとよいのじゃ。
執着のなくなった心で見れば、赤子は本当は何をしているのか、何がしたいのかわかるじゃろう。
それが本当に叩くという行為なのか、危険な兆候であるのか理解できるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
2023-09-15 金 21:49:32 |
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鬼和尚天空
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