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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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山の喩え。
 さて、今回は修行の道について話をしよう。
 みんな長らく修行しているが、全然悟りなどは得られないと、そろそろ飽きてはいないかな。
 もう半年はやっているが、一向に観照などは起こらないと。

 焦るのはわかるが、修行などは何もしていなかった者が、半年ばかりの修行ではやはり真の悟りは得られないものじゃ。
 石の上にも三年と言うことわざ通り、最低でも三年は修行すべきじゃろう。
 もちろん、お釈迦さまのように、悟りを得られなければ死んでもいいと決意して、七日七晩も坐り続けたなら、直ぐにも悟りを得られるかもしれん。
 しかし、普通の日常を送っている者には、やはりそれほどの決意や時間はとれるものではなかろう。
 普通の者は長い目で見て毎日の修行で、少しずつ進歩していくしかないものじゃ。

 悟りへの道は例えば高い山に登るようなものとも言えよう。
 一日や二日ではとても登りきれない、高い高い山。
 そのような山に登ろうと言う者は、始めに固い決心が必要じゃろう。
 どうしてもてっぺんまで登ってやるという、強い決心が無ければ、とても登りきれるものではない。

 そのような決意は悟りを求める者にとっては、発菩提心と呼ばれる悟りを求めるための心に喩えられよう。
 死の恐怖やもろもろの苦を逃れる為に、正しい悟りを得ようという固い決心が、修行の最初に必要なのじゃ。
 真の悟りを得ようとする者は、正しい悟りを得るまでは決して修行を止めないと、最初に固く決心すべきなのじゃ。

 さて、決意が出来たなら、いよいよ登るのじゃが、山の麓には川が流れていたり、珍しい獣などいて、気を取られるかもしれぬ。そのようなものに一々気を取られていたら、早く登る事は出来ない。
 それらは不要なものとして目もくれないで、登る事に集中すべきじゃろう。

 そのような目を奪われる景色などは修行者にとっては、世間の雑多な知識や心のうちの雑念に当るじゃろう。
 こっちのカルトが良さそうだとか、あっちの修行はくんだりにーが早くあがる、などと比較したり、心の中の雑念に気を取られていては、修行は進まない。
 修行者はそのようなものに囚われず、ただもくもくと己の努めを果たすべきじゃろう。

 麓から中腹まで登ってくると、今度はいろいろなものが見えてくるようになる。下からは見えなかった深い谷間や、奇妙な洞窟など下界では見られない珍しいものが、たくさん見られるようになる。
 面白いからと言ってそのようなものに近づけば、たちまち谷に落っこちたり、洞窟に迷いこんで出られなくなってしまう。

 修行者も修行が進んである程度、集中力がついてくると、いろいろなものが見えたり、珍しい力がついてくるようになる。
 しかし、それらに囚われると慢心の谷や妄想の洞窟に迷い込み、行者病になって、修行の正しい道には戻れなくなってしまうのじゃ。
 古来から力のある多くの修行者が、この行者病に落ちこみ、修行の道から外れていった。
 そのような罠には気をつけなければならんのじゃ。

 そのようなものにも気を取られずに、更に登って行くと、やがて開けた所にでる。
 そこは日の光が多く当り、全てが輝くように見える。  
 そこからは広い景色が見渡せ、何もかもが明らかになったようにも見える。
 とても気分が良く、自分が無くなったかのようにさえ感じる。
 もしかするとここが頂上かと、間違う者が居るかもしれないが、冷静に良く見てみれば、半分位しか来ておらず、まだまだ先があると知れる。

 修行も深くなって来ると、やがて心が統一したサマーディーの状態に入る者もいるじゃろう。
 知らない者にはそれが悟りのようにも思えるじゃろう。
 しかし、サマーディーを得ただけでは、まだまだ半分の行が上手くなったというところに過ぎない。
 そこから自己の探求を経なければ、真の悟りは得られないものじゃ。
 
 開けた丘を後にして、夜中でも暗い森林を手探りで歩いていくと、やがて登る者は大きな石にぶつかるじゃろう。
 とても大きな石じゃ。
 避けようとしても避けられず、常に目の前に広がる石。
 それを越えるにはひたすら自分というものを無くし、ただ登るという事に集中しなければならない。
 今まで行ってきた事の全てが試される、真の正念場である。

 修行者が自己を手探りで観察し続ければ、やがて大きな石のような障害に当るじゃろう。
 それが自我と言うものじゃ。
 それは真に大きく、修行者の全ての世界を覆っている。逃げようにも逃げられず、さけようにもさけられない、どこにでもあって、どこまでも続く巨大な石のようなものじゃ。
 それを超えるには、ただひたすら己を虚しくし、観察が無意識の観察に変化するまで、修行し続けるしか方法は無いのじゃ。
 ここでは、もはや何のテクニックもちっぽけなエネルギーも役に立たない。
 己の心に嘘をつかず、己の心に陰の無い者だけが、その石を超える事が出来るじゃろう。

 そして行者はいつか自分がその石を超えたと判る。
 その石はただ言葉とイメージに過ぎなかったと、観照によって破壊する時、頂上は既に目の前に在る。
 そこからは既に目の前に頂上が見えるじゃろう。
 必要なのはただ今、観ているものも、又捨てるべきものと気付く事だけじゃ。
 それが大悟徹底なのじゃ。
 頂上につけば、もはやなにも恐れるものも無い。

 全てがそこにあり、全ての意識が連なっていると、感じるじゃろう。
 山も、風も、空間さえも意識であり、形の違いは意識の大海に漂う波のようなものと、知れるじゃろう。

 そして、頂上では永遠すらも無と観る大いなる意識が、帰ってきた小さな波の一つを迎えるじゃろう。
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元気が出る説法 | 13:35:09 | Trackback(0) | Comments(0)
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