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苦滅の理論
 今回は苦と観察について話すのじゃ。

 人を苦しめるものの本体は何かと言えば、それは阿頼耶識による繰り返し起こる一連の連鎖反応と言えるかもしれん。
 苦は因により、縁によって、何度も繰り返し起こり、止めることが出来ず、増大していくものなのじゃ。
 それは今、ここにある現実を見る事が出来ず、過去の記憶による認識がそうさせておるのじゃ。
 
 例えば死の苦、死苦というものがある。
 死というものは現実にあるものであるが、生きている限りは誰もまだ経験した事がない。
 経験したことが無いにも関わらず、人は死を慮り、それを苦にしておる。
 死苦の本体は死そのものではなく、過去の記憶から構成された、死に対する不安や恐怖を伴う言葉とイメージに過ぎないものじゃ。
 それが繰り返し起こり、止められず、増大する故に死は苦となる。

 人が何らかのきっかけで個我の消滅という推測や、他人からの情報などによって死に対する恐怖や不安を抱くと、それが記憶され、関連性のあるものを見たり聞いたりする事で、なんどもその不安や恐怖が甦る。
 認識そのものが記憶に依存している故に、人はそれを止められない。
 止められないから何かに逃避し執着する事で忘れようとする。
 すると執着するものを得られないという苦や他者との争いという苦が、次々に起こる事になる。
 このようにして人は苦を繰り返し味わい、止められず、苦が増大して行く人生を送る事になるのじゃ。

 病や貧困による苦も世の中にはある。
 それらは今、ここにおいてあるものと思う者もいるかもしれん。
 しかし、それらも又、個我というものに執着し、その消滅する不安や恐怖と結びついているのじゃ。

 例えば病による痛みは今、ここにあるものじゃが、それは本来体に備わった、警報に過ぎないものじゃ。
 体のどこかに不具合があれば、体は痛みという警報装置で教えてくれる。
 痛みはただの警報であり、それが体を傷めるものではない。
 意志によって気にならなくする事も出来る。
 しかし、痛みが起こる度に、肉体が壊れるのではないかとか、昔は痛まなかったとか、 早くもとのようになりたいとか、何度も繰り返し思い、それを止められぬ故に、病による痛みは苦になるのじゃ。

 貧困も腹が空き、餓えるものじゃが個我に囚われなければ、苦になるものではない。
 もっと金が欲しいとか、恥だとか、金があればと思う心が苦を作り出す。

 そのような心の仕組みは全て記憶による認識である、阿頼耶識によって成り立っておる故に、繰り返し表れ、止められず、増大する性質をもっているのじゃ。
 そしてそのような苦に自分のイメージである自我を投射している。
 苦が我であると想い、執着し、離れようとしない事が更に苦を増しているのじゃ。
 
 例えば人が自動車事故などに会い、恐怖を味わったとしよう。
 その記憶は心に残り、自動車とか車に関係するものを見たり聞いたりする度に、表れ出る。
 その記憶の連鎖は止められず、恐怖そのものを恐れ始める。
 恐怖から逃れる為に車を見ないように外出を避けたり、思い出すものを目に付かないようにしたりと、さまざまに苦を増やしつづける。
 そして、そのような苦を己だと想い、執着し、離れず、苦であると認めようともしない。
 これが多くの人間の陥っている現状なのじゃ。

 このような苦の連鎖を止めるには、観察をするのじゃ。
 観察によって記憶の連鎖は止まり、客観視する事で自己同一化が解消される。
 このような過程は厭離と呼ばれる。

 観察によって観察するものと観察されるものとの間に、狭間ができるのじゃ。
 観察されたものは外部のものとして認識され、自己同一化が終わる。
 そしてその仕組みが全体として把握される時、あたかも種のわかってしまった手品のように、もはやそれは苦として恐怖や不安の対象ではなくなり、いらないものとして処理されるのじゃ。

 このように今、ここにある苦の表れと、原因と、逃避する行程を全て観察する事で、苦は止める事が出来るのじゃ。
 観察は今、ここにあるものを観る行為であるから、過去の記憶に惑わされず、干渉を受けないのじゃ。
 とは言っても最初のうちはやはり観察をしていても、つい記憶に釣られてしまうとう事もあるじゃろう。
 しかし、集中と共に修行していく事で、観察は上達し、記憶に煩される事が無くなる。
 十分に修行した者なら、個我の成り立ちを観察し、あらゆる苦を消す、観照が起こる事もあるじゃろう。
 全ての苦を消すまで、みんな精進するのじゃ。
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苦滅の道理論 | 19:58:40 | Trackback(0) | Comments(5)
コメント
生きてる
まだ生きているのじゃ。
2009-04-03 金 10:38:42 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
出来たようじゃな。
 厭離が出来たようじゃな。
 観察が完全になされないうちには、未だ苦は続くものじや。
 どのような苦も観察によって消せると判ったなら、社会的な人生も変わるじゃろう。
2009-04-28 火 20:49:13 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
新鮮じゃ。
そうじゃ、世界はいつでも新鮮じゃ。
観る者が変わると、世界も変わるのじゃ。
2009-04-28 火 20:50:50 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
自分の苦しみも他者の苦しみとして客観的に観察すれば、苦しみも軽減するよという意味でしょうか?
とにかく、自分をあたかも他人のように客観視する事が修行だと思えばいいのでしょうか?

最終的には客観視している自分もいない。「五蘊皆空。度一切苦厄。」
ということになるのでしょうか?

私の解釈に間違った点があれば、是非ご指導ください!!
2011-11-24 木 10:54:04 | URL | shozen [編集]
集中して自分の心を観察するのじゃ。
くわしくは新しい記事に書くのじゃ。
参考にするのじゃ。
「苦を滅する法」を読むのじゃ。
2011-11-26 土 19:10:29 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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