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鬼和尚天空

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実修3 苦の集の観察。
 お釈迦様が教えられた縁起は、人の心の中に起こるものが、ただ一つであるのではなく、関連していると示している。
 苦もただそれだけであるのではなく、原因から関連し、関連する事から連想や想起があると教えられている。
 それを観察するのが、苦の集の段階である。

 苦が確かにあり、それが原因から生じていると判ったなら、苦を滅する観察が本格的に始まる。
 原因から苦があり、それが縁によって想起されると、全体を観察したならば、早くも苦は客観化され、厭離していくのが判るじゃろう。

 ここで注意しなければならんのは、前にも書いた通り、観察が知識を得るためではないという事じゃ。
 原因を探り出し、原因が判ったからといって、それで終わりではない。
 苦が無くなるまで、繰り返し、原因から苦が生じ、苦から逃避が起こっていると、観察し続けなければならん。
 
 例えばキサーゴータミーのように、子を亡くしたのなら、子供への執着から苦が生じ、
それから逃避しようとして、生き返らせたいと願っていると、観察し続けるのじゃ。
 何かの事故にあい、その経験から恐怖症に陥っているなら、己の肉体への執着から死への恐怖が起こり、そこから逃避しようとして思い出すことを避けていると観察する。

 多くの苦は執着が原因になっておる。
 しかし、あらかじめ結果が判っていては、むしろ観察の妨げじゃ。
 経典などに書いてあるのは観察例の一つであり、参考にしても囚われてはならん。
 例えば人によっては愛する者と離れた苦も、原因は怒りかもしれん。
 あるいは別に二つも三つも原因があって、苦が成立している事もある。
 一つの苦が執着を生み、別の苦の原因になつているという事も珍しくは無い。
 人の心は千人居れば、千の違いがある故に、一人一人が真摯に己の心を観る努力をしなければならない。
 そして、観察によってどのような事が判ろうと、それを受け入れ、苦が無くなるまでその連鎖を観続けるのが大事なのじゃ。

 苦は人の認識の上に成立し、記憶によって思考や感情をともなう回路を作り上げる。
 それに自我を投射し、己の苦である、己が苦しんでいると誤認する故に、苦は人にとりついてはなれないのじゃ。
 観察によってそれらが己ではなく、ただ記憶によって成立した回路である事が了解された時、自我の投射は止み、苦は厭離される。
 
 そのような縁って起こる苦の集が観られたなら、次の苦の滅によって更に厭離を促進するのじゃ。
 
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苦滅の道実修 | 21:11:57 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
>多くの苦は執着が原因になっておる

ということですが
執着以外の原因とはなんでしょうか。

宜しくお願いします。
2011-05-11 水 17:33:55 | URL | sei [編集]
それは人によって観察が違う故に幾つもあると説くのじゃ。
同じ苦の原因を観ても、ある者は執着だと観る。
別の者は記憶が原因だと観える。
また別の者は過去の記憶と比較する事が原因と観える。
そのように人によって生まれ育ちや視点が違う故に、同じものを観ても結果が異なるのじゃ。
そしてそのように自ら観察した事だけ経典に書かれた言葉よりも正しいのじゃ。
それが厭離を起こす故にのう。
2011-05-14 土 20:56:39 | URL | 鬼和尚 [編集]
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