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鬼和尚天空

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実修2  苦の観察
 止観を実践して集中力と観察力がついた者は、苦を観察する道に入るのじゃ。
 苦を観察するというのは簡単なようで実際には、こきが難しいものじゃ。
 何故なら多くの者は苦を恐れ、逃避し続けた為に、自分に苦があるという事すら認めないようになっていたりするものじゃ。
 苦から逃避するという習慣が出来ている者は、苦を認め、滅しようと決意する事すら難しいじゃろう。

 しかし、最初の一歩が肝心なのじゃ。
 自分に苦がある、苦しんでいるという事をはっきり認め、その苦を滅しようと決意すれば、もはや苦は半分は滅したも同然じゃ。
 全ては己の決意にかかっておる。
 苦があると認め、それを滅するという決意から全てが始まるのじゃ。


 苦があると判ったなら、それを正しく観察するのじゃ。
 それはどのようなものなのか、始めて観るような気持ちで観察する。
 それは目や耳や鼻や舌や体や心にどのような影響を及ぼしているのか。
 見る事、聞く事、匂う事、味わう事、感じる事、考える事にどのように関わっているのか、観察する。

 それがどのようなものであるか、子供のように観察するのじゃ。
 観察にはあらかじめ結果があってはいかんのじゃ。
 結果が判っているなら、それは観察ではない。
 経典に書かれているのは、例であり、マニュアルなのじゃ。
 心から沸いてくるものがどのようなものであろうとも、それを認め、肯定も否定もせずに観察し続けるのじゃ。

 本当の観察とはただひたすらに今、ここにあるものを観ていく事じゃ。
 例えば子供が目の前に見知らぬ物を出されたら、どうするじゃろう?
 子供はただひたすらに見つめるじゃろう。
 我を忘れ、己も無く、ただ無心にそれが何なのか見つめる。 
 それこそが観察なのじゃ。

 心の中から湧き上がる感情に、名前を付ける事すら観察の妨げになる。
 例えば誰かと離れた時の苦が悲しみとは限らない。
 それは怒りかもしれん。
 
 感情を限定する事無く、初めてそれを見つけた子供のように、驚きと新鮮さをもって心の中から湧き上がるなにものかを観るのじゃ。
 どんな言葉が浮かんでも雑念として処理するのじゃ。
 涙が出るなら泣いていい。
 そして眼から水を出していると観察する。
 耐えられないと感じるなら、そのように感じていると観察するのじゃ。

 それがどこから沸いてくるのか判らないなら、それから逃げているからかもしれん。
 その時も逃げていると観察する。
 逃げるのは恐れがあるからかもしれん。
 それも恐れから逃げていると観察する。
 なにものが表れようとも、それを観察し続けるなら原因が観えてくる。
 そして、苦の集を観る事に繋がっていくのじゃ。  
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苦滅の道実修 | 21:12:50 | Trackback(0) | Comments(0)
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