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鬼和尚天空

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生の滅とは何か。
 十二因縁の最後では生の滅が老死の苦が滅するとあり、永らくこれは死ねば苦がなくなるというような、間違った解釈がされてきたものじゃ。
 その為にお釈迦様の教えは、悲観的なものじゃと誤解までされてきた。

 生の滅とは死ぬ事ではない。
 これは間違って認識された生、生あるものという概念が滅するという事なのじゃ。
 生あるものという概念がある限り、老病死の苦はあり、それが無くなれば苦はなくなる。
 これこそが生が滅すれば苦が滅するという教えの真の意味なのじゃ。
 
 人が無明や他の因縁により、生ある者という概念を持った時、生の衰える病や老いなどの苦を抱え、生の絶たれる死という苦が生じる。
 誤った認識により、生あるものと、生の無いものという分別が起こり、それによって多くの苦が生じるのじゃ。
 生あるものであるという概念が、他から離れたものである個我という概念を生み、他から離れた不安と恐怖の苦の海を転変としていく。
 それが輪廻というものじゃ。
 本来は他との隔たりは無く、一つのものであっても生あるものという分別が苦を生じる因となるのじゃ。

 例えば一つの部屋にいろいろな地域から来た人が、何人も入っているとしよう。
 何もしなければそのままじゃが、互いに皮膚の色や髪の色などで分別し、仲間を組んだりすると、喧嘩が始まったりする。
 分別によって他から切り離されたと思う者が、他を恐れ、不安に思うからなのじゃ。

 この因と縁を観察し、生あるものという概念を離れれば、もはや生の衰えである老病などの苦は無くなり、生の絶たれる死という苦もなくなる。
 生あるものという概念によって生じた間違った認識が無くなれば、それをもとにした苦も無くなるのじゃ。
  
 生あるものと生の無いものという分別が無くなれば、全ては始めから一つであったと認識される。
 生あるものも無いものも、ただ一つの意識の表れに過ぎないのじゃ。
 この大地も空も空間も全てが、本来同じ一つの意識を持っているだけなのじゃ。
 それは変転しながら変わる事が無い。
 言葉を越えた永遠の安らぎがある。
 観察によって生あるものという概念を厭離すれば、始めからそこに居た事を認識するじゃろう。 
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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 11:22:42 | Trackback(0) | Comments(11)
コメント
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2009-07-20 月 09:40:41 | | [編集]
鬼和尚

人生相談の方がスパム対策でしょうか、表示になりません。
重なってしまうかもしれないですがご了承ください。

昨日7/20はYBB規制解禁日でした。

皆、お待ちしていますので、よろしくお願いいたします。

2009-07-21 火 11:09:18 | URL | ななし [編集]
Re: タイトルなし
そうか解禁じゃったか。
知らんかったのう。
明日はいくじゃろう。
2009-07-21 火 23:46:36 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
生きていて非常に苦しく、和尚のおっしゃられる「この大地も空も空間も全てが、本来同じ一つの意識を持っているだけなのじゃ。それは変転しながら変わる事が無い。言葉を越えた永遠の安らぎがある」といったことを何とか理解したい、悟りたいと思っています。
でもどうすればよいのかまったく分かりません。
どうしても早く苦しみから抜けたさから即時の解放のようなものを求めてしまうのですが、
やはり悟るためには数息観などを地道に行じていくしかないでしょうか?

5月31日のただ己を追究し続けることとのお言葉には大変励まされたのですが、
それはより具体的にはどのように行えばよいでしょうか?
「心の中の何かが自分じゃろうか?
感情が己であり、感情が無くなれば己は無くなるじゃろうか?」
といった問いに対して、一応頭では観念的に答えを出せるのですが、
和尚がおっしゃられていることはそういうことではないきがしています。
もう少し詳しくご説明していただけましたら誠にありがたく存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
2009-07-25 土 03:44:02 | URL | tachibana [編集]
苦を滅するのじゃ。
苦があるなら苦を滅してから悟りを求めるがいいのじゃ。
このブログにも書いてあるように、苦の原因を探り、そこから苦が生じるさまを順逆に観察するのじゃ。
苦を滅するだけならば、効果は早く表れるじゃろう。


その経験は苦を滅した後に悟りを得る為の行にも役立つ。
自らを追及する道は、頭で考えて答えを出すものではない。
己の心を観察する事によって、自我が見られたものとなり、厭離していくのじゃ。
観察によって苦は離れ、観察によって自我は厭離される。
感情が起これば、そこに自我が投射される。
思考が起これば、自我も連なって起こる。
その働きを集中して観察するのが真の自己を探求する道になる。
それが出来るように、集中力を養うために、数息観などの修行があるのじゃ。
先ずは苦を滅する為に、苦の原因は何か、己の心を観察するのが良いじゃろう。
2009-07-27 月 15:10:51 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
ご回答ありがとうございます。
これまで悟らなければ苦しみを滅することはできないと思っていたのですが、
悟りの前の段階で苦しみを滅することができるんですね。
自己を追究していくことは苦しみを滅するというより悟るための道ということでしょうか?
アドバイスしていただいた通り、苦しみを滅するために心の観察をしてみます。
ありがとうございました。
2009-07-27 月 18:36:33 | URL | tachibana [編集]
Re: そうじゃ。
自己を追求するのは、悟るための道じゃ。
全ての苦を滅するには悟りを得る以外に無い。

しかし、苦を滅しながら悟りを得る事のできる心の観察を、お釈迦様は教えられたのじゃ。
心を観察し続ければそれが自己の追及にもなるのじゃ。
またおいでなさい。
2009-07-31 金 08:58:52 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
ブログを一通り拝読致し直しました、和尚様、ご回答ありがとうございました。
再三の質問本当に恐縮です、ご回答いただけるまでこれで最後ですのでお許しいただければと存じます。

「心を観察し続ければそれが自己の追及にもなる」とのことですが、
心の観察ということと自己の追究ということとの関係はどういうものでしょうか?
それは同じことなのか、それとも心の観察もまた自己の追究のための方便にすぎないのでしょうか?
悟りのためにもっとも直接的な方法とは何でしょうか?
心の観察とは、心に生じてくる思考や感情を観察することと思うのですが、
自己の追究とは心を観察する主体(自己?)それ自体を追究することであり、単に観察の対象としての思考や感情の観察とは別のことでしょうか?

疑問符だらけで恐縮ですが、要はただ心(思考や感情)の観察だけをひたすらやっていけばいいのか(心の観察こそが自己の追究そのものであり、もっとも直接的な方法といえるのか)、
それともそれとはまた別に自己の追究という方法やその必要性があるのか、その点で混乱してしまっております。
何卒ご指導いただければと存じます。

もう一点、よく本などでは座禅でも何でも、本当にしっかりやろうと思うなら一人でやらずに直接師に指導してもらう必要があるなどと聞きます。
おそらく和尚様の立場は必ずしもその必要性はない(結局自分自身をどこまで深く観られるかどうかだから)というものだと思うのですが、
ある程度助けになるというような、直接指導の有効性といったものは認めておられるでしょうか?
またもしその場合は和尚様が推薦できるような方はおられるでしょうか?
…というよりも、和尚様に直接指導していただければ一番と思うのですが、
直接それをなさられていないのは、やはり和尚様がその必要や有効性を認めていない、
あるいはこのブログの内容通りに一人で真剣に取り組んでいくこと以上のものではないというお考えからでしょうか?
…どうも心が弱く、怠け心や我見に陥ってしまう不安などからも、
ひたすら一人で取り組んでいくよりも、正師に就いて直接指導していただいた方がよいのではないかとも思ってしまうのですが、
これもまた単に自分自身と取り組むことからの逃避に過ぎず、退けるべきもので、
和尚様を含め直接師に就くということをせず、ひたすら一人自分自身と取り組んでいくべきでしょうか?

今日一日で多くの質問をさせていただいてしまい申し訳ございませんでした。
誠に恐縮ですが、何卒ご回答よろしくお願い申し上げます。
2009-08-01 土 01:55:12 | URL | たちばな [編集]
自我を作っているのは心であるから心の観察は即ち己を追及する術にもなるのじゃ。
どんな道も山のてっ辺に登れば同じようなものじゃ。
人によって最も速やかに悟れる道は違うものじゃ。
しかし、どんな方法でも最後には己を観る事になる。
それ故に、観察こそが最も直接的な道としてお釈迦様は教えられたのじゃ。

師匠の存在より、修行者にやる気があるかどうかが問題なのじゃ。
お釈迦様の付き人であったアナンダは、ずっとお釈迦様のそばにいたい為に、わざと修行しなかった。
後にお釈迦様が亡くなってから、ちゃんと修行して悟りを得た。
このようにお釈迦様でもやる気の無い者を、悟らせる事は出来なかった。
お釈迦様が亡くなっても、やる気があれば悟れるのじゃ。
2009-08-03 月 12:44:41 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
今回の一連の質問でようやく観察ということの真の重要性を理解できた気がします。
またやはり結局自分のやる気次第であるという点もわかりました。
今後実践をしていく中でまた不明な点など質問させていただくことがあるかと存じますが、
何卒今後共よろしくお願い申し上げます。
この度は誠に有難うございました。
2009-08-03 月 19:54:04 | URL | たちばな [編集]
どういたしまして、またおいでなさい。
2009-08-05 水 11:34:03 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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