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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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真の悟りを目指すのじゃ。
 精神を集中していると、次第に思考が静まっていき、何の思考も無い精神状態に入るじゃろう。
 思考無しの意識があるそのような状態から、更に深まれば一時的に自我の抜け落ちた集中状態になる。
 それをサマーディ、三昧と呼ぶ。

 それは自我の無い集中、集中して一時的に自我の無くなった状態なのじゃ。
 この状態では一時的ではあるが、自我が無くなっている故に、悟りと間違えてしまう者が多い。
 サマーディの間だけは苦や迷いが無く、自我が無い為に平等性智も芽生えておる。
 自我を離れた安心感や対象との一体感があり、歓喜も起こる。

 そのような経験から、これは経典にあるような、悟りに違いないと、勝手に解釈してしまう。
 中にはこれで自分は悟った勘違いし、天狗になって他人の言葉が聞けなくなり、却って真の悟りから遠ざかってしまう者までおる。
 そのような者にとっては、サマーディはむしろ修行の妨げでしかなかった、と言えよう。 
 禅で言う大悟徹底というスローガンは、このような迷いに陥り易い者の為に、言われておるのじゃ。
 
 このようにサマーディと真の悟りとは、違いがあると知って置けば迷うことは無い。
 一番大きな違いはサマーディは一時的な体験でしかないが、悟りは恒久的な変化である事じゃ。
 サマーディに入っている時は、迷いも苦も無いが、日常に戻ったら相変わらず迷いや苦に陥る。
 このような状態ならば自分はまだサマーディを経験しただけと知るが良い。

 悟りを得たならば迷いも苦も永遠に無くなる。
 本人がそれをあえて受けようとしない限りは。

 例えばある者が体が痛いとか、借金をどうしようとか悩んでいるとしよう。
 その者が坐っている最中は、その悩みや苦が無い。
 しかし、日常に戻ると再び体は痛み、借金をどうしようと悩んでいる。
 このような体験があるならば、それはサマーディにまでしか到達していないと知れるじやろう。

 悟りを得たならば体の痛みや借金が無くなる訳ではないが、それについて悩んだり苦にしたりする事は無くなる。
 もはや体や社会的な立場に対する執着が無くなっているからじゃ。
 悟りとサマーディにはこのような違いがある事を知って、修行者は止まる事無く修行に励むのじゃ。

 しかし、サマーディが全く役立たずと言う訳でもない。
 高度に精神が集中し、自我も一時的であるが抜け出しておる。
 そのような状態の時、自我の生成や仕組みを見たならば、自我が完全に消えて行く観照が起きる可能性が非常に高い。

 もし修行者が天狗になる事無く、恐怖に打ち勝って、集中力を、観る者そのものに向けたならば、悟りの最初の関門を開く事が出来るじゃろう。
 為す者も無く為される観照によって、自我が完全に抜け落ちたならば、もはや認識の誤謬を正す事は容易である。

 サマーディに千回入った所で、真の悟りには及ばない。
 例えば船に乗っている者が目的地の岸を見ただけの者と、目的地に本当にたどり着いた者のようなものじゃ。
 岸を見ただけの者が大きな虎が居ると思っても本当は岩かもしれない。
 岸にたどり着いた者は、実物を見て岩だと知れる。

 真の悟りを得た者は智恵が生じ、全てを如実に見る事が出来る。
 そして始めて何の意も無しに、全ては一つであると知れる。
 語ることも、表すことも出来ない意識のみが存在すると判る。
 そこに至れば死をも無に等しい砂粒の一つと了解する。
 修行者はそのような真の悟りを得るまで、サマーディに止まる事無く進んでいくのじゃ。
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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 20:47:02 | Trackback(0) | Comments(19)
コメント
鬼和尚さま、お教えください。

>しかし、サマーディが全く役立たずと言う訳でもない。
 ・・・そのような状態の時、自我の生成や仕組みを見たならば、自我が完全に消えて行く観照が起きる可能性が非常に高い。

サマーディの状態の時に、どういう訓練をしたら自我の生成や仕組みを見ることができるのでしょうか?
2009-09-04 金 00:33:20 | URL | ポワロ [編集]
それには普段の観察が大事じゃ。
毎日の修行でしっかり観察をしていれば、自我の無いサマーディの時にも観察は働くようになる。
自我無しで心は働く。
それは自我が己ではなく、己のものでもない事の証明でもある。


2009-09-04 金 13:03:29 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
鬼和尚さま
坐っている最中だけでなく、動中の工夫で、日常生活そのものが無我になれば、
悟りの何合目でしょうか?
2009-09-04 金 17:13:02 | URL | 小鬼ちゃん [編集]
さまディ
サマーディにすら入れない私はどうすればよいのやら。。。
2009-09-07 月 11:09:51 | URL | スミス [編集]
小鬼ちゃん。

そこまで来ればもはや八合目と言えるじやろう。
自我を観照するには大きな崖を越えねばならん。
そこが九合目じゃ。

2009-09-07 月 19:05:38 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
スミス

修行あるのみじゃ。
いつかはそんな事で悩んでいたと、思い出す時が来るじゃろう。
2009-09-07 月 19:06:48 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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2009-12-03 木 02:23:28 | | [編集]
良い体験じゃ。
一瞬でも自我の脱落を垣間見れば、役に立つものじゃ。
そこまでくればもはや答えは自分でわかっておる。
自ら書いたとおり、自我ではもはや出来ることではない。
しかし、やらねばならん。
自我に出来る事は無い。
だとすれば何がやるのか。
一瞬でも垣間見たものが、やるじゃろう。
自我はそれの邪魔をしなければいいだけじゃ。
十分に集中力があれば、それに集中できるじゃろう。
修行あるのみじゃ。
2009-12-04 金 20:15:38 | URL | 鬼和尚 [編集]
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2009-12-25 金 04:49:37 | | [編集]
正しい道を歩んでおるのう。
集中もある程度行くと、今度は体と心を任せる事が必要になって来る。
能動的な瞑想から受動的な瞑想に進化するのじゃ。
どこまでも己を任せきり、明け渡していく事でさらなる境地へと誘われていくのじゃ。
それはもはや己がやる、行う事ではない。
全てが起こる事を許す道なのじゃ。
体と心に起きてくるなにものにも逆らわずに許し、その過程を傍観するだけなのじゃ。
そのような意識にのみ観照が起こる可能性があるのじゃ。
2009-12-30 水 21:07:40 | URL | 鬼和尚 [編集]
段階
はじめまして。
よろしければ教えて頂きたく質問をさせて頂きます。

自我を休ませると無の圧倒的な存在を感じます。
そこに確かにある存在。
多分これがもう一人の自分なのでしょう。
いわゆる観照を起こしうる存在なのでしょうか・・・・・。

この先にいきたい。
真っ暗で深い底(空間?)に問いかけると無で返してきます。
探し続けていますが、いまだ至っておりません。

いかんともしがたい状況。
時に重苦しく、その重苦しく感じている自分をみつめています。
そしてもっと深いところにいつもある無。

観照に至れるのか、それはまだまだ遠いのか近いのか、全くわかりません。

私は一体何合目に立っているのでしょうか?
2011-01-21 金 09:21:52 | URL | [編集]
Re: 段階
かなり深く瞑想に入っているようじゃのう。
頓悟という言葉もあるように、悟りは気づきがあれば直ぐにでも起こるものじゃ。
例えば真っ暗な部屋の中で、出口を手探りで探していた者が、実は気づけば出口が直ぐ後ろにあったと知るように、それは気づけば直ぐにでもあるものじゃ。
誰でも修行中には不安や焦りがあるものじゃ。
何かが観えればそれに囚われたりもする。

心が逸ればむしろそれは遠ざかる。
瞑想を楽しみ、安らぐ時にむしろ心は開かれるものじゃ。
そして無を見るのではなく、無を見ている者を追求するのじゃ。
それこそが探していたものと知るじゃろう。
2011-01-24 月 20:10:11 | URL | 鬼和尚 [編集]
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2011-01-25 火 08:39:53 | | [編集]
>心が逸れば

とは例えばどういうことでしょうか・・

あと

>むしろそれは遠ざかる

とは何が遠ざかるのでしょうか。

よろしくお願いします!
2011-01-26 水 11:53:01 | URL | sei [編集]
瞑想の中で観たものや体験したものに囚われ、それを追えば心が逸れた事になる。
そして悟りは遠ざかるのじゃ。
人によっては何年もそのようなものに引っかかったりするものじゃ。
瞑想中に観たものや体験は、過ぎてしまえば記憶に過ぎないものじゃ。
それに囚われもう一度観たり体験しようとすれば、記憶を追いかけて心を逸らし、悟りは遠ざかるのじゃ。
今ここで行われている呼吸に集中し、今ここにあるものをひたすらに観察する事が、肝心なのじゃ。
2011-01-30 日 22:32:31 | URL | 鬼和尚 [編集]
自我を離し瞑想中に無を見ているものに集中し
自分なりに「空」に集中をスライドしていくと
呼吸がほぼ止まりそうな状態になります。
このまま止めてしまおうとすれば
止まりそうです。が、そこで怖れ(自我)が起こります。

それを昨日からグルグル繰り返しています。
2011-01-31 月 09:51:57 | URL | sei [編集]
Re: タイトルなし
呼吸が止まるならば、自然に呼吸を止めたら良かろう。
自分で止めても自然に再開するから死にはしないのじゃ。
その間際で恐怖するものを観るのじゃ。
本当は死なないと言う知識や知性とは関係なく、勝手に恐怖を起こすものを観る。
それは本当に自我じゃろうか?
知性は死なないと判っておる。
すると勝手に恐怖が起こるのは知性とは違うものじゃろうか?
知性と恐怖を起こすものとどちらがおぬしなのじゃろうか?
観てみるのじゃ。
2011-02-03 木 19:54:17 | URL | 鬼和尚 [編集]
和尚様、自我ってなんでしょうか・・
僕は「自我」って喜怒哀楽など感情すべて自我が起こすものとして
勝手に解釈しているのですが、どうなんでしょうか。
教えてください。
2011-02-07 月 09:48:00 | URL | sei [編集]
それは知識として教えられるべきものではないのじゃ。
全ての修行者は自ら観察して理解しなければならないのじゃ。
本当に感情は自我から出ているじゃろうか?
感情を起こすものが自我なのじゃろうか?
感情は悲しい事があれば悲しいと感じ、嬉しい事があれば嬉しいと感じる。
それは機械のように反応するだけのものじゃ。
それに本当に自我というものが必要じゃろうか?
自我無しで反応する感情を観るのじゃ。
2011-02-14 月 20:53:49 | URL | 鬼和尚 [編集]
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