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鬼和尚天空

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言葉の無い観察
 長い間修行して集中力と観察力がついたなら、観察も言葉の無い領域に入っていくのじゃ。
 言葉を使う観察はもともと未だ観察力の無い最初の頃に、観察力を養うためのものじゃ。
 修行して観察力がついたなら、心の動きを見守りながら、それらに一つ一つ言葉を与えない観察をするのじゃ。

 人の頭の中には言葉を操る言語中枢というものがある。
 そこで言葉を記憶から取り出し、知覚したものに投射しておる。
 その働きは本来在るものではなく、又知覚よりは遅いものじゃ。
 知覚したものを言語にする事に拘れば、観察は妨げられる。
 そして人によっては、言語による知識への自我の投射も続くものじゃ。

 そのような妨げを無くすには、言語を超えた観察によらねばならない。
 言葉以前の心の動き、本初に近い近くの働きを、言葉を使わずに観察するのじゃ。

 それにはかなりの集中力と観察力が必要になる。
 十分に集中力と観察力が身についたと感じた時にやるべきものじゃ。
 時には自分が何をやっているのか、判らなくなる事もあるじゃろう。
 そのような時には言葉による観察に戻って、やり直すのも良い。

 もとより心の動きは言葉にはならないものじゃ。
 言葉にならない心の動きに、記憶の中から言葉をつけたしておる。
 自分はこのように感じたとか、このように思ったなどの言葉は後からつけたしたものじゃ。

 今、ここに生じては消える心の働きを観察するには、言葉を使っていては不可能なのじゃ。
 後になって説明する事は出来る。
 しかし、観察中に言葉を使えば、記憶への依存を引き起こすのじゃ。
 記憶に依存しない、今、ここにあるものを観察するには、言葉から自由になった観察力が必要なのじゃ。

 心はいつでも動いておる。
 坐って観察してみれば、ほんの僅かな時間でも忙しく働いている心が判るじゃろう。
 いろいろなものを思い出したり、考えたり、物音を知覚したり、止む事無く働いておる。
 それらの動きがある度に、言葉にしたくなるじゃろう。
 言語中枢が働かせたくなる。
 それを抑えてそのままに見守るのじゃ。
 心の中に動いていく物事をあれこれと言葉にする事無く、流れるままに見守る。
 あれでもなく、これでもないものが働く様を見守り続ける。
 その過程で心の働きの中で己であると投射していたものが、剥がれ落ちていく。
 
 つい言葉が動いてそれらに名づけてしまうこともあるかも知れん。
 そのような事があっても動揺せず、言葉と共に動くものを抑え、見守り続けるのじゃ。
 
 十分な集中力と観察力が無ければ難しいかも知れん。
 集中力が無ければ心のコントロールは難しく、観察力が無ければ進歩が無い。
 基本的な止観の修行が十分になされたと感じた時にのみ、試してみるのじゃ。

 古の目覚めた者達はいずれも、このような言語に出来ない心を観て悟りを得た。 
 言葉に出来ない動きを見た故に、それを言葉でうまく説明は出来なかった。
 ここまで来ればもはや悟りは近いと言えるのじゃ。
 後必要なのは真の悟りを得たいと言う純粋な熱意と、己ではなく己のものでもない自我を捨てる勇気だけなのじゃ。
 それを持つ者が最後の関門を越える事が出来るのじゃ。
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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法 | 14:00:13 | Trackback(0) | Comments(8)
コメント
言葉を使わないで心の動きを見つめています

心に怖れが無い状態を言語化せずに起こします
それは「愛」にも似た、ほがらかな感じです

対人関係はこの状態だと良いですが

一人になって心を観察すると

「自我が無くなっても、未だそれを観るものがある。」

という和尚様の言葉を思い
それを内に見つめていました

「それを観るもの」それが阿頼耶識

その阿頼耶識を厭離する

それを観るものということは
俯瞰のように別の視点から観ているようです

今までそこから観ていたように自我を破壊してきました

それと同じようには「未だそれを観るもの」
つまりは阿頼耶識を厭離することには至りません
内に観始めていたことが
宇宙の端が拡大し続けるような感じで
俯瞰的視点は広がり続けます・・・

これからも、あせらず観察していこうと思います。

これまでの経過を
和尚様の御意見をお聞きしたくコメント致しました
宜しくお願いします。
2010-04-07 水 10:28:55 | URL | sei [編集]
修行中に観たものに囚われずに続けるのじゃ。
観察も集中も知識や体験を得るためのものではなく、捨てるためのものじゃと知るのじゃ。
常に初心者のように、毎日初めて修行をする気持ちで己の心に向き合うのじゃ。
誰のためでもなく、己のために真摯に己の心を観るのじゃ。 
2010-04-11 日 20:45:00 | URL | 鬼和尚 [編集]
質問です。
こんにちは。いつもお疲れ様です。

避難所の方に書き込みをしたのですが、レスがもらえなかったので、改めて質問をさせてください。

止が上達すれば、観も上達する。
観が上達すれば、止も上達する。

以前このような事をブログかスレの何処かで書かれていたのですが、これは、

観が上達し、焦点を何処に当てるでもなく、様々な雑念や情動がつねに俯瞰されている状態であれば、意図的に意識を100%1つの事に向ける事も出来てくる。

止が上達すれば、その延長線上で「全体像の観察」という作業も、無念の中で速やかに行うことが出来る。

大まかにいうと、このような理解でよろしいのでしょうか?

実際、自分は今まで観のみに終始していたきらいがあり、最近なにをやるにも直ぐに(勝手に)動機が溶解、または散漫(俯瞰にくつろぐ状態)になってしまい継続出来なくなり、この状態のチューニングが出来、継続力がつくようにということにより、最近止の行を取り入れたのですが、それにより、今まで見えていた、脳内でたゆたう価値観や思考、言葉、質感のみの情動、起きながら見ていた既視感をともなう心地よい映像、そしてそれをさらに包括的に見ていた揺るがぬ視点、これらが一挙に全てなくなり、一応無念と言える状態にはにはなっているとは思うのですが、身に起きている状態が良く分からず、なぜか後退しているような気がして、正直迷っています。

方便として上手く住み分けが出来ずにいるかというところで考えあぐねているのか、それか、もともと自分が観のみだと思ってやっていたものが実は止・観があわさっていたもので、今回それをわざわざ分離して考えてしまったのか、このあたりがなかなか附に落ちないので、上記の理解でよいのかなど、宜しければ御教授お願い致します。

2010-05-27 木 04:05:10 | URL | eitasu [編集]
それはすまんかったのう。
止観についてはそのような理解で良かろう。

おぬしの言う通り今までやっていた観でそのまま止にもなっていたのじゃ。
新しいやり方で一時的に後退しておる。
しかし、それで良いのじゃ。

例えば今まで長くたどって来た道でも、袋小路に入っている事もある。
新しい道に入れば一時的に戻る事もあるが、目的地に続いている道ならばいずれは更に近くまでいけるものじゃ。
しかし、今までたどって来た努力が無駄になった訳ではない。
道の歩き方をよく知ってより早く行けるじゃろう。

おぬしも集中を行って一時的に後退したが、すでに無念無想の所まで来ておる。
集中力がつけば出来ることが増えていくものじゃ。
自らの状態をコントロールしながら、より遠くまで行く事ができるようになるじゃろう。
2010-05-30 日 22:46:05 | URL | 鬼和尚 [編集]
ありがとうございます。
こんばんわ。回答どうもありがとうございました。
すみませんが、もうひとつ疑問が湧いてきたので質問させてください。
止観というのは、同時に行われることはあるのでしょうか?

以前、一回俯瞰の中の多層性の中の一つに「息の数を数えている意識」を置いて、全体像の認識と一つのことを行う感覚が両立する感覚(快を感じ、さらにいくつか思考しながらも息を恒久的に数えられるという、かなり腰の据わった感覚)になったのですが、ある日別の機会に行った数息観(止)をすることによる無念無想(呼吸とひとつになる、視界がクリアになる)とは全然別の状態で、僕の体験した「両立」は止観の概念から外れているような状態なのではないかと思ってしまいました。

和尚のおっしゃる「今までやっていた観でそのまま止にもなっていた」というのは「同時に出来ていた」ということで、僕のこの感覚を伸ばすと、両方が並列的に伸びていくという解釈で良いのでしょうか?スレにいつも貼られている行のテンプレを読むと「止をやってから観」みたいな、あくまで2つ各々行うみたいな印象があったので、この疑問が湧いてきました。

ちなみに、止のみを行ったことによる無念無想状態はかなり繊細で、気を抜くとプハーと解けてしまう、例えるならしゃっくりをがんばって止めようとする、またはうがいの水を喉ぎりぎりで保ち続けるみたいな感覚に似ているものでした。(加えて、この時に全体像の俯瞰はなく、観は後退している感じがした)

今回止を取り入れた要因が勘違いによるものかもしれなかったので、以前の我流の方法で同時に伸びるなら以前までの慣れも加味してそっちの方が良いかなと思っています。
2010-05-31 月 04:47:06 | URL | eitasu [編集]
集中した状態で観察する事も勿論あるものじゃ。
しかし、集中力は別に修行した方がより早く身に付くじゃろう。
集中力が付けば観察もまた容易になる。
息をつめなくてはできなかった事も、簡単に出来るようになるじゃろう。

直ぐに辞めるより、集中は五分程度にして、観察を長くするなど工夫してやるのが良かろう。
五分でも行えば集中力は強くなっていくものじゃ。
自分にあったやり方を探すのも道なのじゃ。

修行中の状態に一つ一つ囚われる必要はないのじゃ。
いずれはそれらも、仮設された状況が起こす幻想と気づく事になる故に。
2010-06-03 木 21:15:51 | URL | 鬼和尚 [編集]
なるほど。
色々と腑に落ちました。どうもありがとうございました。
2010-06-04 金 00:45:26 | URL | eitasu [編集]
、どういたしまして、またおいでなさい。
2010-06-07 月 20:44:27 | URL | 鬼和尚 [編集]
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