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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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善い事をするのじゃ。
 昔、お釈迦様と同じ時代に六師外道という六人の導師がおったそうじゃ。
 その中の一人がこの世には善も悪もないと言う者が居ったのじゃ。
 善い事をしても善い報いはなく、悪い事をしても悪い報いはないという。
 お釈迦様はそのような者に対して、そのように説くべきではないと言われたのじゃ。
 世には善い事と悪い事があり、善い事をすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いがある。
 そのように説く事こそ正しい教えと言われたのじゃ。

 一説によれば六人の導師も悟りを得ていたという。
 全てを否定するのも真我の法の一部と言えるじゃろう。
 それでも悟りを得た者の間にも優劣があり、教えにも正否があるものじゃ。
 善悪の基準も仮設された人の世の中にあるものであり、本来は無いとさえ言えようが、それでも善悪はあり、善悪の報いもあると教えるのが、お釈迦様の教えなのじゃ。

 善悪が無く、その報いもないと言えば、戒が浅く、軽率な者は悪事に走る事もあるじゃろう。
 人々は善い事をしなくなり、獣のように争い合って暮らすじゃろう。
 自らの欲にのみ従い、他から奪う事だけを考えるようになる。
 そして実際に個我の観念を持つ者には、やはり悪事には悪い報いがある。
 そのような教えを真に受けて悪事をした者は、この世で苦しみ、死んでからも苦しむものじゃ。 

 それ故に人を教え導く者は、そのように説くべきではないと、お釈迦様は言われたのじゃ。
 そのような説は人を過ちに導くものであり、愚かな教えであり、外道の説なのじゃ。
 悟りを得れば世を超脱し、善悪の基準も無くなるが、それでもあえてそう説くべきではないのじゃ。

 例えば学校に入っている者には校則というものがある。
 すでに学校を卒業した者が、そんなものは無いといって、生徒に校則を破らせれば良い先輩ではないじゃろう。
 校則を守って学問に励むのじゃと、教えるのが正しい教え方といえるじゃろう。

 そのように悟りを得ればもはや善悪の基準も無くなるが、未だ個我の観念を脱していない者には善悪がある。
 そんなものは無いと教えれば、ただ害だけがあって良い事は1つも無く、良い導師とは言えないのじゃ。
 世にいる内には善悪があり、それを守って修行するように教えるのが、正しい教えといえるのじゃ。

 悟りを得て善悪の基準を脱していながら、あえて人には善悪があり、その報いがあると教えるのが、お釈迦様の深い智恵による教えなのじゃ。
 実際に悪いことばかりしていれば多くの悪しき事が起こり、心は乱れ修行どころではなくなる。
 善い事をすれば善い報いがあり、心が静まり、落ち着いて修行ができる。
 それ故にお釈迦様の教えは有用なものであり、正しく、善く説かれたものとして修行者も、目覚めた者も尊ぶのじゃ。
 みんなも善い事をして、心穏やかに修行に励むのじゃ。、
 
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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 20:38:34 | Trackback(0) | Comments(0)
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