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鬼和尚天空

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己の本心を観るのじゃ。
 多くの人が観念に囚われるのは、観念を持つと共にそれを正しいものとしているからじゃ。
 しかし、観念を正しいと思うのも実際は自己正当化によるものが多いのじゃ。

 一度、観念を受け入れ、それが正しいと思ってしまうと、なかなかそこからは抜けられないものじゃ。
 現実とはかけ離れたことでさえ、観念として囚われてしまえば、それがその者にとっては現実よりも優先するようになる。

 例えば些細なことでも己を責め、自分で自分を苦しめたり、知識を蓄え、それだけが正しいと思い、現実を見れなくなったりする。
 観念に囚われ、観念に従っていれば、そこから逃れるのは難しいものじゃ。

 観念に囚われた者は観念が己であると投射し、観念を持つ己というものを守るために、観念を守ろうとする。
 それが自分を苦しめているものであるとさえ、判らずに観念を守るのじゃ。
  
 観念に囚われた者は、観念を守るために人の言葉を聞かず、観念を守るために知識を集め、修行さえもする。
 しかし、観念を守るための知識や修行は何の役にも立たないものじゃ。
 それはかえって苦滅の道、悟りへの道から遠ざかるばかりなのじゃ。


 そのような観念を滅するには、己の本心を観なければならない。
 嘘偽りに固められたものではない、己の本当の思いを、集中力と観察力で観るしかない。
 
 ただ独りで座り、他人からの何の介入も無い時、人は己の本心を自ら吐露する。
 他人が居ればやはり観念を用い、それをまた守りたくなる。
 ただ独りで居れば、誰かに何かを開陳することも無い。
 観念を述べたり、守ったりする必要も無い。
 そこで初めて己の本心が現れるのじゃ。
 
 修行によって得た全ての集中力と観察力は、本心に向けられるためにのみある。
 それが本心に向けられず、ただ観念を守るために向けられれば、どんな修行も実ることは無い。
 集中力と観察力は本心に向けられるために、養われてきたのじゃ。

 己の心を嘘偽りで固めてきた者には、むしろこの本心を知るが難しいものじゃ。
 誰かに見せるためでもない。
 誰かを守るためでもない。
 誰かを見返すためでもない。
 ただありのままの己の本当の心。

 そこに帰ることが安らぎであり、苦を滅する道であり、悟りへの道なのじゃ。
 

 
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悟りを得るための修行法 | 20:30:02 | Trackback(0) | Comments(14)
コメント
頭の中で言葉やイメージを用いないのも
そういう観念に囚われている ということでしょうか?
2010-11-14 日 21:13:31 | URL | sei [編集]
それだけなら観念に囚われているわけではない。
そのようであってはならないとか、そのようでなければならないとか、そのようであるのが、正しいとか、正しくないとか、そのように思うのならば、観念に囚われていると言えよう。
2010-11-16 火 18:48:17 | URL | 鬼和尚 [編集]
「思う」と「考える」ということは、どう違うのか?

日常何気なく使いわけているけれど
どう違うのか考えたことないかも・・ということを考えました。

考えるということは、事実に基づいた考察
思うということは、事実に基づいた考察 + 心の期待感的考慮

観念とは、不確かなことを確かだと思うこと、信じていること
というような気がします。

己の本心を観れば観念は観念するということなのでしょうか?

それと、気づけば己の「メンツ」とか「プライド」といった自我が
内で蠢いています。

他に、人に、どう思われても一向に構わないと思いますが
なかなかそうもいきません。

それは思っているからでしょうね

それを考え、頭の中で 言葉やイメージを起こさないということで
厭離する・・・ということを実践しています。

という現状でございます。

観念ということを今回聞いたとき、何かしようとすること自体
そういう観念なんだーと思い・・・

頭の中で言葉やイメージを用いないのも
そういう観念に囚われている ということでしょうか?

という質問を和尚様にしました。

「ただ現実に忠実であること」と
「自己の思い」とが
己の中でごちゃごちゃになっていました。

ということを考えましたが、そういう解釈でよろしいのでしょうか・・・

よろしくおねがいします
2010-11-17 水 12:00:24 | URL | sei [編集]
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2010-11-17 水 18:33:14 | | [編集]
sei 殿

少し考えすぎのようじゃ。
それは方法であり、観念ではない。
そうしなければならないとか、そうしてはならないとか、囚われた時に観念になるのじゃ。
法さえも囚われれば観念になるものじゃ。
2010-11-17 水 20:01:23 | URL | 鬼和尚 [編集]
Re: タイトルなし
sk殿

それはサマーディ、忘我と言える状態じゃのう。
悟りの山頂に至る峠の一つというようなものじゃ。
峠道に出れば、山頂には楽に行けるように、それを以って心を観るには役に立つものじゃ。
それを使い、真摯に己の本心を観るならば、悟りは遠くないと言えよう。
2010-11-17 水 20:07:36 | URL | 鬼和尚 [編集]
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2010-11-17 水 20:42:12 | | [編集]
何でもやってみるといいのじゃ。
たとえ役に立たなくても、全く無駄にはならないのじゃ。
お釈迦様も苦行をやって役に立たないと知る事が出来たのじゃ。
歩みを止めなければ必ず゛悟道は自ずから訪れるじゃろう。

2010-11-21 日 18:56:32 | URL | 鬼和尚 [編集]
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2010-11-21 日 20:36:11 | | [編集]
どういたしましてまたおいでなさい。
2010-11-25 木 19:55:01 | URL | 鬼和尚 [編集]
内容と無関係なので恐縮ですが、質問させてください
修行が進み、また悟りを開いたことで筆に変化はありましたか?
また悟りを開いた見地から、書や筆跡について何か思ったことがありましたら教えていただけないでしょうか
2010-12-12 日 03:35:30 | URL | 小鬼ちゃん [編集]
観念とは何でしょうか?

信ずることではなく
正でも誤でもなく

囚われの思い。

僕は、自分自身の心と頭は分離しているように観えますが

心に有るものが観念という事だと、おぼろげに観えます

2010-12-12 日 20:20:21 | URL | sei [編集]
書や筆跡の変化はわからんのじゃ。
わしはもとからものを書いたりするのが少なかったからのう。
今もキーボードばかり使っておる。

もとから書や筆跡を練習していたものは、己を虚しくする事で上達することもあるじゃろう。
己と言う意識、自意識が無いとき、人は最も上手く肉体を使う事が出来る。
書や筆跡のみならず、どのような技も優れたものになるじゃろう。 
2010-12-13 月 20:14:20 | URL | 鬼和尚 [編集]
観念とは心に有るもので、いいのじゃ。
そしてそれにも執着しないことが肝心じゃ。
観察に正しい答えと言うものはない。
誰もが己の立場や習い覚えた言葉で、心の中を表現する。
それに間違いも正しいも無い。
やがて観察が進めば観念が記憶によって支えられているとか、自我を投射する対象であるとか、もつと深く観ていくことが出来るじゃろう。
そのようにして観念を観察し、囚われることが無くなれば、正しく観察したと言えるのじゃ。
2010-12-13 月 20:22:40 | URL | 鬼和尚 [編集]
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