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鬼和尚天空

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死に行くものを観るのじゃ。
真の修行者は常に死を想うのじゃ。
死を想えば修行も進むのじゃ。

昔、インドにラマナ・マハリシという覚者が居った。
彼は常に自ら死を想い、それから逃げるより、むしろ死を味わうことで悟りを得た。

偽りの導師、偽者の修行者は死を恐れ、それから逃げ、隠そうとする。
死を語る者を非難し、そうすれば死が遠ざかると思うかのように、己を守ろうとする。
そのような者は悟りをもたらす真の教えから遠ざかる。

死は真の修行者にとっては修行の糧となり、導師となり、試金石となるものじゃ。
死から逃れたいと思う事で修行を志し、励みとなるのが修行の糧じゃ。
修行が正しく進んでいるならば、やがて死の恐れは消え、死そのものも無いと知れるのが導師じゃ。
迷った時には今自分が死を恐れていないか、死を超えた境地にいるか確かめる事が試金石じゃ。

人が恐れる死によって真の修行者は糧を得て、導かれ、試されて目覚めに至る。
死は勇気のある真の修行者にとって、恩寵と言えるものなのじゃ。

誰にでもあてはまる普遍的な真理があるとすれば、それは死に他ならない。
誰もが避けられず、やがて死に行くこの真理に眼をそむければ、やがて絶望が訪れる。
愛する家族も、友人も、自分も、やがて全ての者が死ななければならない。
それは自我を守る者にとっては絶望であるが、真の修行者には越えて大きく羽ばたくことが出来る、踏み台となるものじゃ。

真の修行者が自らを偽らず、死を観たならば、大きな恩恵を受けるじゃろう。
死に行くものと、滅することの無い不死の意識を知る事が出来る故に。

マハリシが観たものは、正にそれじゃった。
死の中に入り、死に行く己を観る、死亡観とでも呼ぶ観察じゃのう。

肉体が死を迎える時、手足が動かなくなるじゃろう。
今まで自分の意のままに動いていた手足が、永久に動かない。
そして体も動かなくなり、硬直する。
腰や胸や腹が動かなくなる。

呼吸が止まり、心臓も止まる。
眼は見えなくなり、耳も聞こえなくなる。
触感も無くなり、その他の感覚も消えていく。

思考も無くなり、感情も消えていく。
認識さえも無くなってしまう。

言葉もイメージも無い絶対的な無。
全てが消え去り、己さえも無い。
そしてまだそれを意識するものがある。

それさえも消えた時、それは露になる。

死すべきものが全て死に絶えた時、死なないものが露になる。
不死の意識が今ここにあるじゃろう。
死に行くものに囚われて観えなかったものが、死に行くものが消えた時、露になるのじゃ。

それは時を知らない。
それは唯一の実在。
それは変化しながら変わることが無い。

常に今ここにあり、消えることは無い。
到達するのではなく、得るものでもなく、ただ死によって消えるものに囚わ

れていなければ、直ぐにも観られる。
永遠の意識であり、唯一の実在であり、滅する事が無い。
それだけが実在であり、それを知れば今まで非実在のものを実在である見なしていたと知る。
非実在の夢から覚めた者が、目覚めた者と呼ばれる。

死から眼を逸らさず、己を誤魔化さず、勇気をもって進む者は速やかに目覚めるじゃろう。
千の方法も、万の知識も、ただ一つの死を恐れぬ勇気が無ければ、何の役にも立たない。
真の修行者は勇気をもって、常に死を想い、それによって不死の意識を知る事が出来るじゃろう。

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悟りを得るための修行法 | 20:30:39 | Trackback(0) | Comments(23)
コメント
拝啓 和尚さま
ひとつ質問させてください。
「悟る」とは実際にはどういう状態から、どういう状態に変化するものなのでしょうか。
悟りの境地は、どうしたらえられるんですか?
修行と悟りは、どのような関係があるのでしょうか。
どうぞ、よろしくお願いします。
2011-01-14 金 20:44:00 | URL | 坐禅丸 [編集]
>それさえも消えた時、それは露になる。

というのは比喩ですか?
2011-01-15 土 17:50:17 | URL | sei [編集]
「悟る」とは記憶に依存した認識が、本来の認識に回帰する状態といえよう。
記憶に依存した認識から生じた、苦や個体と言う幻想から目覚めるのじゃ。

このブログなどに書いてある修行をすると良かろう。

修行とは悟りを得るための手段じゃ。
それを行えば悟りを得やすくなるが、最後に必要なのは、必ず悟りを得ると言う意志と、己を捨てる勇気なのじゃ。
2011-01-17 月 20:09:41 | URL | 鬼和尚 [編集]
Re: タイトルなし
> >それさえも消えた時、それは露になる。
>
> というのは比喩ですか?

実際にそのようにも表現できるのじゃ。
自ら体現しなければ判らんかもしれんがのう。
言葉は表すそのものではない故に、自らの理解によって知るしかないのじゃ。
2011-01-17 月 20:15:00 | URL | 鬼和尚 [編集]
禅の感覚
ひとつ教えてください。
禅を組んでいるときに無念無想を心がけてやっていたところ、時間がたつにつれて身体の感覚が空気にとけていくようになりました。
そのまま続けていたところ自分がなくなりそうな感覚になり、この先に行くと、戻ってこれないような不安を感じました。
すると急速にいつもの感覚に戻ってきました。
不安に感じたのは自我意識が解体されることに恐怖を感じたからなのでしょうか?
あれは観照しかけたのでしょうか?
それとも妄想なのでしょうか?
あのまま任せてしまった方がよかったのでしょうか?
2011-01-22 土 18:05:32 | URL | [編集]
Re: 禅の感覚
それは自我が解体されると恐怖を感じたからじゃろう
そのまま任せてしまえば忘我、サマーディに入れたじゃろう。
そしてサマーディの中で自我の成り立ちを観られたなら、そのまま悟りへと没入していったじゃろう。

しかし、そのような体験に囚われれば、むしろ修行は後退するものじゃ。
今度は怖がらないようにしようと、力んだりすると逆効果になる。
そのような事もあると瞑想を楽しみ、心身を任せれば、自然にやってくるじゃろう。

2011-01-24 月 20:19:48 | URL | 鬼和尚 [編集]
どういたしましてまたおいでなさい。

  
2011-01-30 日 22:27:43 | URL | 鬼和尚 [編集]
和尚様

質問させてください。
「死」への恐怖は悟らなければ
無くすことはできないのでしょうか?
2011-01-31 月 18:53:19 | URL | えてこ [編集]
いつも修行の参考にさせていただいております。感謝いたします。
さて、今回の記事についてひとつ疑問があります。
和尚はblog上から、仏教のカテゴリーで修行され、その見地からさまざまな洞察されたものを語られているものと私は理解しております。
同じく、私も仏教系のいち修行者として気づきの修行を中心に取り組んでおります。

今回の日記で、「実在」について語られておりました。わたしも悟っているわけではないので、はっきりと疑問点を提示できるわけではないのですが、
修行とともに、多少の教学の方も学んでいきますと、仏教上は、大乗、上座、どこも区別なく「無常(苦、無我)」の教えで、いわゆるどんな形であれ不変、実在、そういったものは相容れないものと理解しています。
個人的には、ガチガチに知識に縛られたいるわけではないので、ラマナマハリシの本や、そのお弟子さんたちの著作にも目を通したりします。
参考になりますし、わかってるんだろうなぁと思うものの、仏教との最終地点の解釈でいつも腑に落ちないところが残るのです。
そんな折に、和尚のblogにも「実在」の表現が使われ、この辺はどう理解、解釈していけばよいのかなと疑問に思うわけです。

伝統仏教系にそって修行し悟りにいたってると思われる方は
「ことごとく無い」「常ならず」に表現されるように、「ある、いる」というような表現も避けるところがあると思うのですが、この辺の解釈の違いというか、捕らえ方はどう考えればよいものでしょう?





2011-02-01 火 21:48:35 | URL | さご [編集]
Re: タイトルなし
> 和尚様
>
> 質問させてください。
> 「死」への恐怖は悟らなければ
> 無くすことはできないのでしょうか?

死の恐怖だけならサマーディに到達しただけでも消えるじゃろう。
サマーディの体験によりこの肉体だけが己ではないと、知識によって理解できるからのう。
知識だけでなく死を超えるには、悟りを得なければならんのじゃ。
2011-02-03 木 19:56:53 | URL | 鬼和尚 [編集]
法句経には不死の境地、ニルヴァーナ、彼岸などの言葉が何度も繰り返し使われておる
それもまた人々を導くためのものに過ぎないものじゃ。
無常や無我という言葉も人を導くために作られたのじゃ。人を悟りへと導く教えが仏教と呼ばれる。
人を悟りに導くことが無いならば、無常や無我を説く言葉も仏教とは言えないのじゃ。
実在や意識や不死の境地など、見知らぬ言葉があろうとも、人を悟りに導くものならば、それが真の仏教と言うものなのじゃ。
それは常に目覚めた者達によって、悟りに導く教えとされることにより、生きたものになってきたのじゃ。
2011-02-03 木 20:51:23 | URL | 鬼和尚 [編集]
導くための言葉はあれど
その言葉を
頭の中で起こさないで
言葉からそのニュアンスを自ら導く
その探求 修行
真理は言葉では現せないけれど
言葉によって導かなければならない
囚われるのも囚われないのも
表裏一体のような気がします。
2011-02-07 月 09:37:07 | URL | sei [編集]
よくわからない
茫然自失とした感覚を想像すればよいのでしょうか?
生命力の真逆的な感じで。
2011-02-07 月 17:08:14 | URL | 竹槍 [編集]
返信
実在の件、ご回答ありがとうございました。
2011-02-08 火 00:41:05 | URL | さご [編集]
鬼和尚様
座禅のとき姿勢を正しくしようとするのですが
どうしても肩が凝ってきてしまいます。
本当に正しい姿勢だと肩が凝ったりしないのでしょうか??
なにかアドバイスをいただけたら幸いです。
2011-02-14 月 18:19:05 | URL | 小鬼ちゃん [編集]
Re: タイトルなし
> 導くための言葉はあれど
> その言葉を
> 頭の中で起こさないで
> 言葉からそのニュアンスを自ら導く
> その探求 修行
> 真理は言葉では現せないけれど
> 言葉によって導かなければならない
> 囚われるのも囚われないのも
> 表裏一体のような気がします。

そうかもしれん。さらに進むのじゃ。
2011-02-14 月 20:54:57 | URL | 鬼和尚 [編集]
Re: よくわからない
> 茫然自失とした感覚を想像すればよいのでしょうか?
> 生命力の真逆的な感じで。


茫然として自らを失う、正にその通りじゃ。
そのように試してみるのじゃ。

2011-02-14 月 20:58:02 | URL | 鬼和尚 [編集]
Re: 返信
> 実在の件、ご回答ありがとうございました。

どういたしまして、またおいでなさい。
2011-02-14 月 20:58:33 | URL | 鬼和尚 [編集]
Re: タイトルなし
> 鬼和尚様
> 座禅のとき姿勢を正しくしようとするのですが
> どうしても肩が凝ってきてしまいます。
> 本当に正しい姿勢だと肩が凝ったりしないのでしょうか??
> なにかアドバイスをいただけたら幸いです。

肩に力が入っているか、猫背になっているのかもしれん。
胸を張るようにして、力を抜いてみるのじゃ。
2011-02-14 月 21:04:53 | URL | 鬼和尚 [編集]
常に死をおもい
平等な目を啓きて
+1 のこの世にある我らは
心を捨てることで -1 つまりは 0 へ
何も無い空間は何も無いわけではなく
+1とー1の対称性の表れ
宇宙はひろがりて
+1を産み続けている

常に死ををもう

腑に落ちた気がします。

さらに観つづけます
ありがとうございます
2011-07-02 土 12:27:25 | URL | sei [編集]
そうじゃ、観るのじゃ。
またおいでなさい。
2011-07-04 月 13:48:27 | URL | 鬼和尚 [編集]
こんにちわ!
ここで少し勉強させて頂いただきたいのですけど、構いませんか?

幼い頃に死を考えて、自分は消えて無くなって、そうしたらすべてわからなくなってしまうんだと、不安に思ったのを憶えています。もう自分のことも考えられなくなるのだろうかと。

ですが時が経つにつれて、死ねないことも、それはそれで恐ろしいなと思うようになりました。肉体が消えても、もし意識だけが永遠に続くとしたら、それもなんだか窮屈で退屈そうで困るなと考えました。

今は肉体が死ぬことも怖いですが、この肉体を持って生きていることへの不安の方があります。病気や事故、世間で生きることの苦労を想います。
自分がいつか経験してみたいことを、経験せずには、まだ死にたくはないという想いもあります。それは悩みでもありますが、生きていく情熱でもあります。

このブログ記事を読んで、改めて、死について真剣に考えてみたくなりました。
考えていると、なんだか気分が暗くなってきます。

質問があります。
ラマナ・マハリシは17歳の頃、死に逝く私を観察して、真我実現をしたと言われていますが、その後アルナーチャラへ行き着き、人との接触がほとんどないまま、洞窟の中で数年を沈黙の状態で過ごしていたと言われています。
ラマナ・マハリシは大悟した後で、なぜこのような修行をしなければならなかったのですか?
2014-03-28 金 13:33:58 | URL | TATA [編集]
Re: タイトルなし
TATA

真の悟りを得たならば死もまた安らぎへの門になるのじゃ。
天も地も何もかもが一つである安らぎへ行くのであるからのう。
もはや途切れる事の無い永遠の喜びに満たされるのじゃ。

マハリシも大悟の後には特に修行するためではなく、生きる事も座る事も楽しみとして受けていたのじゃ。
指導して欲しい者には指導するのも喜びだったのじゃ。
慈悲によって自他ともに利益を得たのであるからのう。
2014-04-20 日 21:03:19 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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